丙午(ひのえうま)の迷信を全て紹介!八百屋お七ってホントの話?
私の姉は1966年で丙午(ひのえうま)生まれです。
『丙午生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮める』
物騒な話ですがそんな迷信、一度は聞いたことある人も多いのではないでしょうか?
妹の私が言うのもアレですが、姉はとっても気が強く、父とも良く喧嘩をしていたし、そんな姉を見ていると、丙午迷信も少しは信じられる・・・と思ったりする今日この頃・・・
ちなみに×1で今は2回目の結婚をして、とっても優しくて穏やかな旦那さんと幸せに暮らしています^^
また他にも、
『丙午の年には火災が多い』
と言った迷信もあります。
では、そもそも丙午の迷信はどこから生まれたのでしょうか?
迷信の根拠となったのは、江戸時代の八百屋お七の話・・・と言われていますが、それも実際にあったホントの話なのでしょうか?
今回はそんな丙午迷信について、気になることを調べてみましたので、是非最後までご覧下さい。
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丙午(ひのえうま)の迷信
丙午迷信は、以下の3つの理由からきていると言われています。- 丙午の年には火災が多いといわれていた
- 中国の俗信「丙午山の雌馬は雄馬をかみ殺す」が日本に伝わった
- 八百屋お七が丙午の生まれだった
1.丙午の年には火災が多いといわれていた

丙午は、干支の組み合わせの43番目で、前は乙巳(きのとみ)、次は丁未(ひのとひつじ)となります。
干支の組み合わせ
十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)を組み合わせたもので、全部で60組あります。
丙午の丙(ひのえ)と午(うま)は、陰陽五行説ではどちらも「陽の火」であることから、火が2つ重なっているため、「火事が多い」と言われるようになりました。
では実際に、丙午の年に火事が多かったのでしょうか?
有名な江戸の三大大火(明暦の大火、明和の大火、文化の大火)はいずれも丙午の年ではありませんでした。
また、「火事と喧嘩は江戸の花」と言われるほど、火災が多かった江戸ですが(267年間に江戸では49回もの大火があった)、記録に残っている主な大火の中で、丙午の年にあったものは1度もありませんでした。
まぁ、大火以外の火事も合わせると、267年間で1798回! という数ですから、大火以外の火事が丙午の年に多かったのかもしれません。
念のため丙午の年表です↓
- 1426年 ・・・ なし
- 1486年 ・・・ なし
- 1546年 ・・・ なし
- 1606年 ・・・ なし
- 1666年 ・・・ なし
- 1726年 ・・・ なし
- 1786年 ・・・ なし
- 1846年 ・・・ なし
- 1906年 ・・・ なし
- 1966年 ・・・ 1月9日 金井ビル火災(神奈川県川崎市)死者12名
- 1966年 ・・・ 1月11日 三沢大火(青森県三沢市中央町)被災人口2152人
- 1966年 ・・・ 3月11日 菊富士ホテル火災(群馬県利根郡水上町)死者30名
1960年代と言えば高度経済成長の真っ只中ですから、人口増加やごみ問題、経済優先といった思考も、もしかしたら関係しているのかもしれませんね。
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2.中国の俗信「丙午山の雌馬は雄馬をかみ殺す」が日本に伝わった

「丙午山の雌馬は雄馬をかみ殺す」
中国の俗信で、江戸時代初期に日本に伝わったと言われています。
かみ殺す・・・とは穏やかなフレーズではないですが、この雌馬同様に丙午の女性は気性が荒い、という迷信に繋がっていきます。
ただこの俗信については、あまり情報が見当たりませんでした。
丙午山(へいごさん)と呼ぶようですが、この山が実際に中国にあったのかもわかりません。
ただ、中国では北宋(ほくそう)時代(960~1127年)の末から、丙午(へいご)を凶歳(きょうさい)とする説が強まったそうです。
農作物が不作の年。凶年。
引用元:goo辞書「凶歳」とは
丙午は火事が多いとか、凶作とか・・・昔からあまり良いようには言われてなかったってことですね。
また、丙午の1126年に中国では靖康の変が起き、金が北宋を滅ぼしています。
このことも、丙午の年があまり良くない・・・と言われることに関係しているのかもしれません。
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3.八百屋お七が丙午の生まれだった

お七とは、江戸時代の江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる少女のことです。
このお七が丙午の生まれだという説があり、そこから、丙午の女性は気性が荒いという迷信に繋がっています。
八百屋お七のお話
お七の家が1683年1月25日の大火(天和の大火)で焼け出され、お七は親とともに正仙院に避難する。
寺での避難生活のなかでお七は寺小姓生田庄之介と恋仲になるが、店が建て直され、お七一家は寺を引き払うことになる。
しかし、お七の庄之介への想いは募るばかりとなり、そこで「もう一度家が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができる」と考え、庄之介に会いたい一心で家に放火した。
火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまるが、お七は放火の罪で捕まり鈴ヶ森刑場で火あぶりにされた。
寺での避難生活のなかでお七は寺小姓生田庄之介と恋仲になるが、店が建て直され、お七一家は寺を引き払うことになる。
しかし、お七の庄之介への想いは募るばかりとなり、そこで「もう一度家が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができる」と考え、庄之介に会いたい一心で家に放火した。
火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまるが、お七は放火の罪で捕まり鈴ヶ森刑場で火あぶりにされた。
このお話も、小説、落語、歌舞伎や文楽(人形浄瑠璃)、日本舞踊、浮世絵などによって違いがあり、放火はせず、代わりに恋人の危機を救うために振袖姿で火の見櫓に登り火事の知らせの半鐘打つ・・・など様々あります。
また、実際のお七についての史実は殆どなく、数々のエピソードを裏付ける確実な資料も残っていません。
そのことにより、お七の存在自体に疑問を抱いている人もいます。
しかし、
- 戸田茂睡の『御当代記』に「駒込のお七付火之事・・・」と記載があること
- 井原西鶴の『好色五人女』が事件から3年後に出版されていること
- 『好色五人女』が流行ったのは実在の事件だから
さて、肝心のお七の生まれ年ですが、1666年の丙午生まれ・・・とも言われていますが、それだと事件を起こしたのは17歳(数え年で18歳)となります。
『好色五人女』ではお七が事件を起こしたのは16歳とされており、その点においては疑問が残りますが、創作話としては多少の脚色もあったと思いますので、お七が丙午生まれだった・・・という説を否定するには弱いかな、と思います。
ただし、お七が丙午の1666年生まれだったという資料もありませんので、ここは何とも言えない・・・ということになりますね。
前田敦子さんがお七を演じられてたんですね・・・ちょっと気になります。
ちなみに、他にも干支や生まれ年についての謂れはあれこれありますので、良かったらどうぞ。
干支や生まれ年についての記事
まとめ
いかがでしたでしょうか?丙午迷信について調べてみました。
- 丙午の年は火災が多い、凶作だ、等あまり良いように言われてない
- 八百屋お七が実在したかどうか、はっきりと分かっていない
- 丙午迷信は迷信である
ということがわかりました。
まぁ当たり前ですが、迷信は迷信、ということでしょうか。
ただし迷信には昔の人の「戒め」 だったり「忠告」 だったりが含まれていると思いますので、迷信なんて・・・と一蹴するのはNGだと思います。
東京消防庁には、
むしろ反対に、昭和41年は全国では、前年の火災件数が戦後最高の記録を残したのに対して、6,100件も大幅に減少しています。
引用元:東京消防庁
と記載がある通り、丙午の年は火事が多いから気をつけておこう・・・という防災意識が高まったからこそ、件数が激減したのかもしれません。
さて、姉が生まれた1966年の丙午は出生率が、前年より25%下がったそうですが、次回の丙午(2026年) はどうでしょう?
丙午生まれの女性がお祖母ちゃんとして、孫の出産に立ち会う時期です。
自分が受けてきた弊害や偏見を思うと、やめなさい・・・とついつい言ってしまうお祖母ちゃんもいるのかもれません。
2026年まで、あと8年。早い!
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