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百人一首の序歌の意味とは?歴史や背景を知ると奥深かった!



競技かるたの「百人一首」で、試合開始時に歌われる歌のことを『序歌(じょか)』と言います。


この序歌を歌うことは”決まりごと”であり、この歌を詠み終わったら、試合スタートとなります。


試合開始の合図の歌、ということですね。


この序歌は百人一首の100枚の中にはない歌(空札)で、全日本かるた協会の指定序歌は、


「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今を春べと 咲くやこの花」


です。


百人一首について色々と調べていくうちに、この序歌があることを知ったのですが、ふと思ったのは数ある和歌の中でなぜこの歌が序歌として選ばれたのか?ということ。


確かに「この花咲くや」と美しいフレーズで、序歌にふさわしい歌ですが、


  • 誰が詠んだ歌なのか
  • どんな意味なのか
  • そして誰がいつこの歌を序歌として選んだのか


など、気になったので調べてみました!それではまず「序歌の意味」から見ていきましょう~。



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百人一首の序歌の意味とは?


「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今を春べと 咲くやこの花」


説明
【読み方】
なにわづに さくやこのはな ふゆごもり いまをはるべと さくやこのはな


【訳】
難波津に咲く梅の花よ 冬の間は目を出さなかったが、今は春だと梅の花か知らせにきたよ


【解説】
「冬ごもり」は冬の枕詞で、次に「春」、「張る」などが来ます。また、「さくやこの花」・・・と聞くと、桜の花を思いがちですが、この歌では「梅」を表しています。


【歌人】
王仁博士(わにはかせ)




この歌を詠んだ王仁は、百済から日本に渡来した中国人と言われていますが、生没年不詳、「古事記」や「日本書紀」にも記述がある、というナゾが多い人物で、詳細ははっきりわかっていません。


研究者の中には実在さえ疑っている人もいるのだとか。


しかし、韓国や在日韓国人社会において、王仁は日本の文化を育み、発展に大きく貢献した人物として扱われ、日韓両国で王仁に関する催し物が開かれています。


またこの歌は、平安時代には「難波津の歌」と言えば「誰でも知っている歌」と言われるほど有名な歌で、古来より書道の手習いとして用いられ、実際に日本各地からこの歌を記した数多くの木簡(もっかん)が出土しています。


この歌が詠まれている動画があったので貼っておきます↓





この歌が詠まれた背景

この歌は、応神天皇の崩御後、菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)と大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)が互いに皇位を譲り合ったため、3年間も空位となっていたのですが、のちに難波高津宮(大阪府)において大鷦鷯尊が即位して仁徳天皇(にんとくてんのう)となった際、その治世の繁栄を願って詠まれた歌とされています。


詠まれた年は、wikipediaの「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」によると、西暦313年となっています。



「あれ?何で難波(大阪)で詠まれたの?」


と思った方いませんか?


実は仁徳天皇は即位する際に、難波を都と定めたのです。


ですので、この歌で詠まれた「梅の花」 は大阪にゆかりの深い花とされ、『大阪府花』 に指定されています。


また、大阪市の浪速区と此花区は、どちらも1925年4月1日にこの「難波津の歌」から引用して誕生しました。


仁徳天皇は即位後、難波津に遷都し、宮居を難波高津宮(なにわのたかつのみや)と定めましたが、この難波高津宮が大阪市のどこにあったかは諸説あり、はっきりとはわかっていません。


しかし、この難波高津宮の跡・・・を示す石碑があり、その石碑は、現在の高津高校(こうづこうこう)の敷地内にあります。


学校に問い合わせれば見学可能だそうなので、興味がある方は一度行かれるのも楽しいかもしれませんね^^



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この歌が序歌に選ばれた理由



この歌は、昭和29(1954)年頃、文学博士・佐佐木信綱 (1872~1963)が、当時の日本かるた協会の依頼によって選定したものです。


選定理由として、


  1. 小倉百人一首の第1首目の天智天皇以前の歌であるということ(時代的バランス)
  2. 古代より和歌の手本となっていること
  3. 「花の咲き誇るような盛んな文化国家に日本がなるように」という願いがあった

この3つが挙げられています。


では、選ばれる前はどうしていたかというと・・・


序歌は必ずしも決まっておらず、読手(百人一首を読み上げる人)の好みだったりしたそうです。


また現在も、開催される大会によって違う歌を用いる場合もあります。


次項はその様々な序歌をご紹介していきますね。



様々な序歌

ここでは3つの序歌と、その歌が選ばれた背景などをご紹介していきます。

君が代は 千代に八千代に さざれ石の いはほとなりて 苔のむすまで



1904年の東京かるた会創立以来の名読手として知られている山田均は、国歌「君が代」 を好んで用いていました。


国家も元々は和歌だったんですね・・・初めて知りました!


作者は文徳天皇の第一皇子惟喬親王に仕えていたとある木地師(きじし)で、地位が低かったため「詠み人知らず」として扱われていましたが、朝廷にこの歌が認められると藤原朝臣石位左衛門(ふじわらのあそんいしいざえもん)という名前をもらいます。


この歌は、木地師であった藤原朝臣石位左衛門が、歌中にもあるそれは見事な「さざれ石」 に出会った際、詠んだものです。


さざれ石とは、石灰岩が雨水に溶かされ生じた、粘着性の高い乳状液によって、いくつもの大小さまざまな石がくっつき、岩のように大きくなったもののことです。


この歌の意味の解釈は人それぞれでしょうが、


『永遠(千年も八千年も)に、小さな石が大きな岩になって、それにさらに苔が生えるほどまで、長く長くずっと平和な世の中が続きますように』


といった感じでしょうか?


うちの娘も幼稚園の入園式や運動会で歌っています。


もちろん意味はわかってないですが、国歌ですからね、大事なことです!



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東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ



私の住む九州福岡の太宰府天満宮 で開催されるかるた大会においては、菅原道真 にちなんだこの歌が用いられます。


意味は、


『春の東風(こち)が吹いたら、また美しい花を咲かせておくれ、梅の花よ。主がいなくても、春に花を咲くのを忘れてるなよ。』


何だか、悲しい歌ですよね^^;


もちろんこれは、菅原道真が筑前(太宰府)に左遷された際の歌です。


菅原道真と梅の木は切っても切れない中・・・太宰府には菅原道真を梅の花が追ってきた「飛梅(とびうめ)」というお話が残っています。


梅の木が一夜のうちに主人(菅原道真)の元へ飛んでいった・・・というお話です。




八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を



毎年1月3日に八坂神社で行われている『かるた始め』 で読まれる序歌が、この歌です。


意味は、


『何十にも重なり合う雲が立ち上がる。ここ出雲に立ち上がるのはまるで八重垣のような雲だ。妻と住む家にも八重垣を作っているよ、そう八重垣を。』


この歌は日本最古の歌とされ、詠んだのは八坂神社のご祭神である、須佐之男命(スサノオノミコト) です。


ヤマタノオロチを倒した須佐之男命が、妻である櫛名田比売(クシナダヒメ)と暮らすための家を作る際に、詠んだ歌だそうです。


何十にも重なった雲のような垣・・・すごく立派な家を作るつもりだったんでしょうね。


立派な家をたてるほど、クシナダヒメのことを愛していた・・・ということでしょうか?


神様が詠んだこの歌を、この神様が祭られている神社で詠む。なんとも粋ですね。



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まとめ

いかがでしたでしょうか?

  • 「難波津の・・・」は天皇の即位に際して詠まれたもの
  • この歌は昭和初期に選定された
  • 地方ではその地域にちなんだ歌が歌われる場合もある

などがわかりました。


序歌・・・と一言に言っても、そこには時代背景だったり人々の願いだったり、とそこから色んなことがわかります。


かるた始めも、一度は見に行ってみたい!けど、京都までは遠いのでまずは太宰府天満宮ですね。


その際は、菅原道真が愛した梅の木も、愛でてきたいと思います。

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管理人:よしこ
福岡県出身福岡県在住
子供二人を子育て中の40代(専業主婦)

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